「一緒に踊ってくれませんか?」
「え?」
「踊れるでしょう? 僕ダンスを習っているの。でも、ほら誰も踊れそうにないから。僕さっきからあなたのこと見てたんだよ。お願い、一緒に踊ってください。」
小さな紳士が私を見上げていた。きれいに切りそろえられたまっすぐの金髪が美しい顔をふちどっている。普段のリンクにしてはちょっとおめかしをした身なりに、少し大き目に見えるシューズをはいていた。ジャケットからのぞく白いブラウスの胸元と手首のフリルは少年の雰囲気とよく似合っていた。背筋をぴんと伸ばしてすっかりダンサーになり切っている。
素敵な紳士だこと。
「ねえ、早く」
「でも、私今日はここの靴だし。上手にすべれないわ」
「大丈夫だよ。見てたもの。さあ、僕がステップの説明をするから」
紳士はしっかり私の手をひいてリンクの中央に向かった。
こんなに小さな男性にリードされるとは。まずは外周を手をつないでまわる。紳士はカーブにくると驚くほど身体をかたむけて、それでもどうにか私と離れずに外側を滑ろうとする。小さいのになかなかしっかりした滑りで安心した。私も靴を気にせずに風を切る感覚を楽しめるようになってきた。もう少し滑りたくなって、右手を腰のつもりで肩にまわし、左手で左手をとってダンスらしく組んであげた。
シャッセ
シャッセ
スイングロール
スイングロール
スライドシャッセ
ターン
スイングロール
ストローク
ストローク
二人でステップを合わせ、時には私の足の間を少年がすりぬける。これじゃ、ペアだけど役が逆だわ。それでも、二人の息がそろうと気持ちがいい。時間を忘れてしまいそう。
でも。忘れるわけにはいかないのだ。
「行かなくちゃ」
「もう?」
「約束があるの」
少年は悲しそうな目をしながらも、ぐっとこらえているのがわかった。そんなところも立派な紳士だった。私はずっとつないでいた手をそっと離して去ろうとした。
「じゃ」
「そんな」
「え?」
「本当に行っちゃうんだね」
「うん」
「仕方ないね。でも、わかる?僕たちはもう一生会えないんだよ。お別れのキスをしてくれなくちゃ」
キスだなんて。こんな時どんな風にしていいかわからないわ。私のとまどいには気づかずに紳士は腕を開いて待っている。こんなの洋画で見たことしかないけど。そう思いながらも腰を落とすと、小さな紳士はちょんと背伸びをして、左の頬、右の頬と順に差し出した。
「それじゃ、お別れだ。気をつけて。ありがとう、さようなら」
そう、じっと私の目を見ながら一息に言うと、紳士は白いリンクの中へ消えていった。
シューズを返して身支度をした。振り返るとリンクが狭く見える。さっきよりたくさんの人が滑っているように見えた。
あ、写真。荷物をロッカーに入れていたからすっかり忘れていた。
そうよ、もう会えないんだもの。急にさびしくなって、バッグからカメラを取り出した。
少年の姿を探す。
まだ疲れているようには見えなかったが、そこに、少年の姿をみつけることはできなかった。だが、その時には、落胆よりも不思議な思いの方が胸をかすめた。
―――彼はどこから来たのかしら。
あんなに美しい子がいたら気がつかないはずはないのに、そういえば声をかけられるまで気づかなかった。
まさか、私の背中を押しに来てくれた天使。
そう信じたくて、私は急いで約束へと向かった。
ああ、間に合った。地図の場所に来ると、そこは今までに入ったことのない高級そうなレストランだった。何度も地図を確かめる。
大丈夫かしら。着替えてはきたけど。私を見てがっかりしないかしら。勇気を出してきたつもりが、レストランの豪華さに気後れしはじめた。外国できちんと食事をするのは初めてだった。外国でスケートをするのも夢だったから、ついつい寄ってしまったけれど、もっと時間をとっておしゃれしてきたほうがよかったかもしれない。私のこと、どんなだと思っているのだろう。手紙を交換するたびにあんなに会いたいと思っていたのに、今はこんな約束をしたことを後悔し始めていた。会わなければずっと友達でいられたかもしれないのに。
入り口の前の階段の下で逡巡していると、ドアから食事を終えた3人連れが出てくるのが見えた。彼らをやり過ごした時、ドアマンと目があってしまった。
うながされるまま仕方なく階段を上がり、明かりの中に足を踏み入れる。品のよい笑みを浮かべたマネージャーに迎えられ、待ち合わせを告げた。
「あちらでお待ちです」
マネージャーが示した方向にはお客でいっぱいのテーブルがたくさん見えた。しかし案内される前に、私の目は迷わず一人の青年をとらえていた。まっすぐの金髪。
彼も私を見るとすぐに立ち上がりこちらに迎えにきた。
「ようこそ僕の国へ。お疲れでなければ、食事の前に失礼なのですが……」
はにかんだ顔で私を見下ろす。
「まずは、一緒に踊ってくれませんか」
少年の声が聞こえた気がした。
次の瞬間、私は右手を優雅に差し出していた。
東京生まれ。神戸市在住。津田塾大学学芸学部卒業。7歳から書を始め、現在は「書」ばかりではなく現代アーティストとして活動している。また、物語作家としても、その表現の場を広げているかたわら、海外のアートフェアに参加しながら、個展やグループ展を積極的に開催している。

